以前、日本の友人(♀ 当時30歳)の結婚式に参加した時のことだ。
披露宴の最後のスピーチで、彼女はこんなことを言い出しだ。
本人は半分冗談のつもりだろうが、何か引っかかるものが自分の中にあった。
もちろん、そういう意図ではなかったかもしれないが、彼女のその言葉からは・・・
と言う本音が読み取れないだろうか?
言い方を変えれば・・・
とも言えるかもしれない。
29歳の女性。
まるで何かのタイムリミット目前と捉えられがち年齢でもある。
そこで今回は、この29歳独身彼氏なし女性の問題について語ってみる。
海外での29歳独身彼氏なし女性
ここ香港では、数年前、「29歳問題」と言う映画が流行った。
この映画は日本でも上映されたので、知っている人も多いだろう。
仕事に明け暮れる30歳を目前に控えた女性が、周囲からの結婚のプレッシャーや友人の婚約に戸惑いを覚え、自分の人生に悩むというストーリーだ。
香港はアジアの中でも、LGBTや環境問題などに関して、寛容で先進的な地域でもある。
しかし、映画でもあるように、女性の「年齢」と「結婚」というワードはまだまだ切り離せない関係のようにも見える。
これは、アメリカでも同じようなことが言えるかもしれない。
以前、アメリカの恋愛バラエティー「Love is blind」というTV番組を見た。
これは、日本で言う「あいのり」や「テラスハウス」のような番組だと思ってもらっていい。
その番組の中で、ある男性出演者がこのような発言をしていた。
日本ではしばし、アメリカや欧州は「個人主義で年齢には捕らわれない」と言われる。
確かに建前は、そうなのかもしれない。
しかし実際、この様に、本音では女性の「年齢」と「結婚」を気にする人は多いのではないのだろうか?
何故、女性ばかりが年齢で語られるのか?
では何故、女性ばかりが「年齢」と「結婚」を結び付けて語られるのだろうか?
それは出産というタイムリミットの問題もあるが、(声を大にしては言いづらいが)やはり女性は、結婚に関しては「年齢」で選ばれるからだ。
20代のガッキーと30代のガッキー。どちらか好きな方を選べるとしたら、どちらを選ぶだろうか?
世の男性の99%は、20代のガッキーを選ぶだろう。
男性が年収300万円を切ると一気に未婚率があがる「年収300万円の壁」があるように、女性にも同じように「年齢の壁」が存在するのだ。
ひと昔前に「東京タラレバ娘」という漫画が人気を博した。
これは33歳の独身女性達が、結婚に向けて奮闘するストーリでドラマ化もされた。
これがもし、33歳の独身男性達のストーリだったら、こんなにも人気は出なかっただろう。(年収300万円の独身男性達だったら人気が出たかもしれない)
「年齢の壁」が存在する女性を主人公にしたからこそ、共感や賛否等を生んだ作品になったのだ。
29歳独身彼氏なし女性への本音と建て前
今、その「東京タラレバ娘」をアプリで読んでいる。
この連載が始まったのが2014年。
アプリには漫画に対するコメントが書き込めるのだが、最近付けられたコメントの中には・・・
という意見が散見される。
今の時代背景というのは、「多様性」や「差別や偏見はNG」ということを指すのだろう。
「結婚も独身も数ある生き方の1つ」
「結婚は義務ではなく選択」
もちろん、その意見は至極全うで、正しいと思う。
だが冒頭の友人のように、建前ではそう言っても
という本音を隠している人は、案外多いのではないだろうか?
29歳独身彼氏なし女性はヤバいという本音
日本とここ香港、そしてお隣の中国や台湾、韓国でも結婚しない若者が増加傾向にある。
その理由は、上がらない給与や不動産価格の高騰、格差の拡大と言われている。
家族を養ったり、家を購入できるだけの収入を持つ男性が少なくなる。結婚に適した収入を持つ男性が減れば、その分、結婚できない女性も増える。
どの国も多少事情は違うが、大きな要因は経済的理由によるものだ。
もちろん、どの国、どの時代にも能動的に「結婚しない」という選択肢を選ぶ人はいる。
しかし、現在は「結婚したくても結婚できない人」が増えたのだ。
そう言った環境の中で
と声を大にして言うのは、「既婚者は独身より上」と言う意味合いを含み、人に優劣をつける様な物言いになってしまう。
だからこそ、「多様性」という耳障りのいい言葉を使って、独身や既婚もみんな尊重されるべきと言う意見が出てくる。
良い人間関係を構築するのに建前は大事だ。
と言えば、誰も傷つくことはない。
だが本音では・・・
と思っていて、世間様が勝手に設定した「30歳」というリミットまでに結婚出来る様に、出会いを求め、婚活をしている。
自分の価値観ではなく、世間体のために。
実際、そんな女性が多いのが現状ではないだろうか?
そして、30歳時点での独身者も増えており、彼女らを敵に回さないために、また自分がそちら側になった時に、自分のプライドを傷つけないために、「多様性」と言う言葉を使って、建前を言っているに過ぎないのではないだろうか?
確かに、今の世の中は「多様性」という言葉を使って、色々な生き方・考え方を認めようという動きになってきてはいる。
しかし、冒頭の友人がポロっと本音を漏らした様に、まだまだ「多様性」という言葉を建前で使っている人は多いのではないか?
そんなことを感じた披露宴だった。
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