音楽プロデューサー・小室哲哉さんが引退を発表した。
誰が小室哲哉を引退に追い込んだのか 週刊文春?それとも「下品な国民性」?
引き金になったのは小室さんの某週刊誌の不倫報道とされる。しかし、今回は某女性タレントの時とは違い、バッシングを受けているのは渦中の小室さんではなく週刊誌の方のようだ。
そんな今回の騒動について、お笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣さんがブログで以下のように言及していた。
小室哲哉さんの一件で、文春が叩かれているけれど、諸悪の根源は「不倫許すまじ」という“他人の色恋沙汰に口を挟むという極めて下品な国民性”にあるわけで、 西野亮廣オフィシャルblogより
下品な国民性が適切な表現かはさておき、日本人が他人の行い(色恋沙汰に限らず)に口を挟みたがる国民性というのは確かなものだと感じる。
では、西野さんが表現した「下品な国民性」とやらはどこからくるものなのだろう?
日本人は本当に下品な国民性なのか?日本人の性格や特徴とは?
下品な国民性かどうかは置いておいて、日本人の大きな特徴として「他人が気になってしょうがない」ということが挙げられる。
これらは全部、他人の目が気になってしょうがない日本人の国民性から来るものだ。
海外では、周りの目を気にして残業することや独身で生きづらい思いをすること、ファッション雑誌を見て着る服を決めることなどほとんどない。
日本人なら必ずどこかで「みんなやっているよ?」という言葉を聞いたことがあると思う。
この言葉が表す様に、日本人にとって自分と周りが常に「同じかどうか」というのは、とても重要な行動規範になるのだ。
江戸時代の民衆を支配するための仕組みに「五人組」というのがあった。
簡単にいうと「1人でも年貢を納めなかったり、犯罪を起こしたら、みんなで連帯責任ね」というもの。
みんなが連帯責任を恐れて、決められたルールを守るので、幕府にとっては合理的で便利な支配制度だった。
現代の日本人にも生きていく上で決められた「暗黙のルール」があり、そこから逸脱するものは許さないという江戸時代の「五人組」から続く相互監視がある。
その決められた「暗黙のルール」というのが「会社への滅私奉公」「結婚」「出産」など日本で生きていくには当たり前とされているものだ。
不倫はもちろんのこと、時には転職や未婚、子供を産まないことさえも「ルールの対象外」となり、鋭利な言葉で批判をしてくる人間が存在する。
「みんな同じでみんな良い」ということで、社会の秩序を守っているつもりでいるのだ。
他の海外の国々にはない「一億総相互監視社会」。
婚活もファッション雑誌も日本人の「周りと同じでなければならない」という性格や同調圧力を上手く利用したビジネスと言える。
最近、話題になっている日本の学校での「地毛の問題」にとってもそうだ。
本当は地毛が何色かなんて問題ではない。
日本の教育の本音はこうだ。
つまり「髪の色」が問題なのではない。「周囲と同じでないこと」が問題なのだ。
これが「一億総相互監視社会」の日本の教育の本質だ。
「相違や少数派は、社会の秩序のために徹底的に叩きのめす」
これらが下品な国民性と表現して良いかどうかはわからないが、日本の国民性や特徴であることは確かだ。
他人が気になってしょうがない日本人の性格がもたらす世界トップレベルの秩序
「みんな同じでみんな良い」というスローガンの下、「相違や少数派は、社会の秩序のために徹底的に叩きのめす」日本人だが、これが良い方向に動いていることもある。
日本の他の国々にない特徴として、治安が良いことと高いレベルの秩序が挙げられる。
・クラクションが鳴らない車の運転
・ゴミが落ちてない街並み
・エスカレータで片側を空ける配慮
・静かな電車の車内
ここまで高いレベルで秩序が保たれているのは、世界を見渡しても日本くらいだ。
これも日本人の「自分のこと」より「他人がどう思うか」を優先させる思考が成せるものだろう。
同じアジアでも中国やインドはこのいわゆる「世間」という概念が希薄なので・・・
・電車を待つ時はいかに入り口近くに陣取れるか
・自分の進路の先にいる車にはクラクション
・自分の家以外はゴミ捨て場
・両側共に人で埋まるエスカレータ
・電車の車内はカラオケ大会
「自分≧他人」がベースの価値観なので他人に配慮したマナーが生まれにくい。
(これらの国の名誉のために付け加えると、彼らは他人には無関心だが、その分、家族や友人には日本人以上に気を使う。)
今後の日本人が目指さなければ国民性
戦後の日本は「一億総中流」と呼ばれ、「みんな同じでみんな良い」という価値観で上手く社会が回った。
しかし、現在の日本は格差の拡大や少子高齢化、移民の是非などの大きな問題が山積みで、20年前までの価値観では対応できなくなっている。
このまま「周りが(と)同じでなければ気が済まない日本人」のままであれば、広がる格差も移民も受け入れることができるとは思えない。
今の日本人に必要なのは、「自分と他人は違う」という「多様性」を認める価値観だ。
肌の色や宗教、LGBT等、様々な違いを認め合おうという流れが欧米だけでなく、他のアジアの国々でも起きている。
このまま、他人の生き方にケチをつけるような価値観では、確実に日本は世界の潮流から取り残される。
「下品な国民性」と同じ日本人に言われている間はまだ救いがある。
本当の意味で「下品な国民性」と諸外国から言われないように、「みんな同じでみんな良い」という価値観のアップデートが至急の課題なのだ。
日本人は他の国々にはない、他者のことをより考えられる国民性だ。
それが世界トップレベルの治安と秩序をもたらした。
十人十色という言葉があるように「多様性」を認め、他者のことを思いやる国民性を忘れなければ、日本人はもっと世界で輝けるはずだ。
多様性を許容できない国民性では今後世界から置いていかれるというご意見、仰る通りだと思います。というより、すでに置いていかれている、というのが私の実感ですが。
私も日本人がルールを守るのは他人を優先しているからだと思ってきましたが、少なくとも近年では、むしろ「ルールを守らないとのけものにされるから」でしかないように感じています。つまりこれもネガティブな意味で他人の目を気にしているだけで、結局自分のためでしかない。しかもそのルールのローカル化も極端に進み、単なるオレオレルールでしかないものを振りかざして、それに沿わない人間を見ると話し合いも何もなく即座に人格攻撃を始める人がネットだけでなくリアルでも増えています。店員に難癖をつけて怒鳴りつける、公共施設の職員を捕まえて身勝手な要求をしては長々と説教する、マナー違反を注意されて逆ギレし怒鳴り散らす、といった場面をニュースではなく近所レベルでたびたび見かけます。
当然のことながら、それはもうただの横暴です。話も通じないのでは無視するほかない。
ところがネットでも(というよりネットこそ)そういう人間が多く、その手の非常識な発言は国内に留まっていません。海外企業にも「日本語版がないとか仕事する気あんのかクソが」といったコメントがどんどん送られてしまっている。悪質さも量も日本人は突出していてフォローのしようもなく、呆れるほかありません。わざわざ日本語サポートの人員を配置するだけでもコストがかかる上、日本人をシャットアウトするだけで不快なだけのコメントを9割以上減らせる、と会社に言われたら何も言い返せません。
他者を思いやる国民性、が本当にこの国に残っているのでしょうか。すでにほとんど過去の遺物になっているような気がしてなりません。
すごく同意できる反面、マナーの部分に関しては快適とも思えたりします。
多様性はすごく大事ですし、でも公共の場で無茶苦茶してる人は不快です。
折衷型の考え、生まれたりしませんかね。
一度も紆余曲折へて文化・文明を築いてないし、他国の制度や文化を真似ただけで、真似で長い事いた国だから。
物や制度でも一部はオリジナルは、ありますが基本が他国の真似では自ら全体を支えてる制度を作りだす事は無理です。
それは、オリジナルにかけた事がコンプレックスとして”下品な行動または言動”に繋がっていると感じます。
上品な行動や言動って以外とどんな国でも規範に沿っていたり、歪曲表現だったり似てると思います。
下品な行動って、狭い規範から逸脱し広く自由でオリジナルが有るような錯覚をさせやすいから、日本人には中々直せないと、思います。
後は多分、言えば言うとおりなると経験にかけた何でも叶うと万能感とでもいう変な病気にかかっているからだ言えます。
海外の人は要求の通し方やり方を考えたり、別の要求に変更したりや妥協を探るような事が双方向であると思います。
人のことは言えませんが、日本人はかなりの人が一方の方向でしかないきがします。
これは、勝者と敗者にているきがします。勝者は敗者を一方的に皆殺しも可能です。勝者は敗者の上に君臨し制御します。
そして、日本人には敗戦または敗者コンプレックスが、未だに強烈に残っておりそれが行動や言動として自らを敗者を蹂躙し君臨する勝者の如く振る舞う事に無意識に繋がっていると考えています。
なので下品で横暴な態度は敗戦コンプレックスの克服、治療しないと無理だと思います。